40歳代でも2人産めた~高齢出産秘話と子育ての苦悩~

不妊治療、不育治療を経て40歳代で2児を出産しました。

子宮鏡手術~不妊、不育のと戦いの10年間~

私が診断された病名は「アッシャーマン症候群」。それはほぼ症例のない疾患であった。治療ができるかわからないと言われた私は、消えてなくなりたいと思うほど絶望していた。

 

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アッシャーマン症候群、治療はできるのか

子宮鏡検査後、初の受診。「治療は不可能です」と言われるのが恐ろしくて恐る恐る診察室のドアを開く。

 

治療方法を医師団で検討した結果、子宮鏡手術をを提案された。しかし前回も説明を受けたように、癒着の範囲があまりにも広いため、手術を行っても妊娠可能な状態にできるかどうかわからないとの事だった。妊娠可能な状態にできる可能性はどの程度あるのか質問すると、こればかりはやってみないと何とも言えないと言われてしまう。

 

手術はできるのだ。とりあえず最悪の事態は免れたようだ。しかし手術を行っても妊娠できない可能性も高い。医師の口ぶり、表情から推測すると妊娠できる可能性は低いのではないかと悪い方向に考えてしまう。可能性が低いとしても手術をうけるべきなのか、もうわからなくなっていた。

 

 手術をうけるべきか

家に帰って夫に診察の内容を説明する。手術を受けなければ妊娠の可能性はない事、手術を受けたとしても妊娠できない可能性が高い事、手術によって妊娠できる状態なっても、また不妊治療と言う出口の見えないトンネルを彷徨う事になる事。どうすべきか色々話し合った。

 

話し合いの結論は、私たち夫婦はまだ子どもを持つ事を諦めたくないという事だった。これから先、不妊治療を再開する事で辛い思いをしたとしても、少しでも可能性があるならば手術を受けてみよう。手術の結果、妊娠が不可能だとすれば、それを受け入れようという事だった。

 

夫婦で手術の説明を受け同意書を提出すると後は機械的に手術日や入院の予定が決定していく。あっという間に手術当日を迎え手術台の上で麻酔のため意識を失う。

 

 

手術の結果 

目覚めた私に手術の結果を医師はこのように私達に説明した。

 

妊娠に必要なスペースは確保できましたが、全ての癒着は剥離できませんでした。卵管部分の癒着が強いので、自然妊娠は難しいでしょう。今後は内膜がどの程度回復するかが問題です。

 

 医師の説明を聞き安堵する。治療が不可能かと思われたほど広範囲の子宮内膜癒着症「アッシャーマン症候群」。その子宮内膜の癒着の剥離はできた。これで不妊治療に取り組める事ができる。不妊治療を続ける事すらできない状況からは脱する事ができたのだ。今の状況から再び前進出来る事に喜びを感じていた。

 

ここから先、まだまだ長い闘いが待っているとはこの時は考えてもいなかった。全てが良い方向に進んでいると思い込み、幸福感のなかにいた。

 

手術後(麻酔中に)再癒着防止のため避妊用リングを子宮内に挿入した。これを2か月後に抜去し、その後はカウフマン療法を行い子宮内膜の回復を目指すとの事であった。

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手術の成功は新たな試練の始まりにすぎない

子宮鏡手術を終え私はある決断をする。妊娠できる可能性がある時間は残りわずか。ならば仕事を辞めて治療に専念する。不妊治療は今しかできないけれど仕事はまたいつかできる。この時私は40歳を目前に控え不妊治療の事しか考えられなくなっていた。

 



 

アッシャーマン症候群~不妊、不育のと戦いの10年間~

たて続けに繋留流産をした私は、短期間で2度の流産手術を受ける。その後、血液検査をした病院で不育症である事が判明する。同時に私は自分の身体に起きている、ある変化に気付く。月経時の出血量が徐々に減少している事。直近の月経では不正出血程度の出血しかなかった事。おそるおそる医師に相談すると子宮鏡検査を受けるように言われる。検査後、私は恐ろしい宣告を受ける事となる。

 

 

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子宮鏡検査

検査台の上に乗り20分ほどで検査は終わったがもっと長く感じた。痛みはあまりないと説明されていたが生理痛よりはるかに重く、鈍い痛みを感じた。我慢できるギリギリの痛みと言ってよいだろう。「うぅー。」と、小さなうめき声をあげると検査を手伝っていた看護師さんが、私の手を握ってくれた。そして反対の手で私の甲をやさしく手をさすってくれた。そうでなければ耐えられなかったかもしれない。下から水のような物が流れている感じがしたが、後で調べるとそれは検査用の水を管で子宮内に流しながら内部を膨らませ、その様子を観察するためだったようだ。その後診察室で検査の結果が説明された。

 

私の身体に起こっていた恐ろしい事

私の病名は「アッシャーマン症候群」というらしい。初めて聞く病名だ。アッシャーマン症候群とは流産手術や分娩後の処置など子宮内に何らかの医療的処置が行われた時に生じる子宮内の癒着である。症状は月経量の減少や、無月経である。子宮内膜が成長できないため、不妊、流産、癒着胎盤の原因となる。

 

治療は主に子宮鏡にて剥離を行う事が多いという。軽度の癒着であれば、今回の子宮鏡で剥離が可能だったという。だが私の場合は、癒着の範囲が極めて広範囲であり、子宮内にほとんど空間がみられないという事だった。

 

現時点での妊娠は極めて困難(不可能)である。またアッシャーマン症候群の症例は少ない(実質、ほとんどないと言われた)ため、治療が可能かどうか、今は説明できない。複数の医師で話し合ってから改めて説明するとの事だった。

 

つまり症例が少ないうえに見たこともないほど、ひどい状態なので、治療方法がわからない。治療できるかどうかもわからない。医師でさえどうしたらいいのかわからないと、言われたのだ。

 

絶望

 

 

何もかも、もう終わったんだ。そう思った。

 

 

 

私がいったい今までどんな悪い事をした報いだというのだろうか。前世でなにか残忍な事でもしでかしたのだろうか。そんなつまらない、ばかばかしい考えが頭をぐるぐる回る。どんなに前向きになろうと試みても何も建設的な考えが浮かばない。

 

家に帰って布団にもぐりこんで泣く事しかできなかった。

 

この世には何も希望など残されていないのだと思った。これまでも十分に試練をうけてきた。悲しい事ばかりだった。それなのに、これ以上私に何を耐えろと言うのだろうか。

 

世間には簡単に妊娠して出産している人がたくさんいるはずなのに、何故私にはそんな事もできないのだろうか。この世のすべてが憎かった。もう頑張る事ができない。誰も知らないところへいきたい。消えてなくなりたい。

 

そんな気持ちだった。

 

今回参考にさせていただいたのはこちらの記事です ↓ 

子宮内腔癒着(アッシャーマン症候群)の原因・検査・治療|医療法人オーク会

 

 

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高リン脂質抗体症候群~不妊、不育との戦いの10年間~

 


3度目の流産を経験した。流産手術後、体調が落ち着いたところで「不育症」の検査のため地域で一番大きい病院を受診する。保険適用外の検査も多く存在する不育症検査。今では各自治体で助成制度が設立されてるが、私が検査を受けた当初は自己負担が重くのしかかった。

 

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不育症検査

一通りの説明を受け血液検査を受けた。1度目の血液検査で不育症を疑う検査結果が出た。医者は「出た出た、出たよ~」と興奮気味に結果を伝えてきた。大変な病気がみつかったのに何を嬉しそうにしているんだ、と少し不信感を持つ。しかし冷静になって考えてみると何度も繰り返す流産には原因があり、それががわかれば治療ができるという事だった。それは再び妊娠できる事ができれば妊娠を継続できる事ができるという事を意味していた。

 

 

この病気の確定診断をするためには12週の間隔を明けて再度血液検査を行い、再びその項目が陽性である事でやっと診断される。30歳代も後半を迎え妊娠可能なタイムリミットがどんどん迫ってきている中での12週はとても長く感じられた。

 

1回目、2回目の検査共にいくつかの項目で不育症を示す値が陽性となった。私は「抗リン脂質抗体症候群(APS)」という病気らしい。しかも難病指定の病気だ。つまりはっきりとした原因は不明という事だ。

 

 

抗リン脂質抗体症候群は、血液中に存在する抗リン脂質抗体という自己抗体が誤って自己の正常な細胞を攻撃してしまう病気(自己免疫疾患と言います)である。流産を起こす原因は胎盤血栓ができたり、胎盤の血管がダメージをうけ、胎盤の機能が失われてしまうためと考えられている。

 

実際に出産後胎盤の検査をしてもらったところ、治療を行ったにも関わらず胎盤内にいくつかの血栓が確認されたとの事でした。不育症治療は万全ではなく私が難病を抱えながら2度も無事出産できた事は、奇跡のような出来事だと考えています。懸命に治療してくださった病院スタッフの方々や、万全の状態ではない胎盤で無事成長してくれた私の2人の子ども達に感謝しています。

 

不育症治療、私の場合

厚生労働省研究班による実態調査によると、不育症患者は約16人に1人の割合でいることがわかっている。また不育症患者が治療を受けた場合、その約8割が最終的には出産に至ると言われている。つまり適切な治療を受ければほとんどの患者が出産できる事を意味している。

 

 

私の場合、抗凝固療法という治療が必要との事だった。妊娠が成立した場合、アスピリンとヘパリンという2種類の薬を使って妊娠を継続させていくという事だった。アスピリンは飲み薬であるのに対してヘパリンは注射薬である。1日2回の自己注射が必要なため自己注射の技術を習得する必要がある。

 

流産の原因である難病が判明し、治療方針が説明される中、治療すれば流産しなくて済むという安堵の気持ちと共に、また不妊治療を再開しなけならない事が辛いと考えていた。不妊治療をしたとしても必ず妊娠できるとは限らない。お金、時間、心、消費されていくものはたくさんあった。しかし年齢の事を考えると限りなく可能性の低い自然妊娠を待っている余裕はなかった。子どもを産みたいのならば不妊治療は避けては通れない事だった。

新たな試練

必要な検査や診察をこなしていく中で、私はある重大な事実に気付く。前回の流産から生理時の出血量がが徐々に減少している事だった。最初はストレスによるホルモンバランスの崩れだと考え気にもとめていなかった。しかし前回の生理では不正出血かと思うほど出血量が少なかった。

 

診察時、医師におそるおそる月経量について尋ねた。まず診察をしましょうと診察台にあがった。超音波による診察の後、医師は「子宮の中の状態を確認してみます」と言い子宮内に何かの器具を挿入した。その途端下腹部に激痛が走る。私は悲鳴をあげて屈みんだ。痛みが引くまで診察台から降りる事ができなかった。痛みが引いたあとのろのろと診察室に戻った私に医師は告げた。「子宮鏡検査をしてみましょう。」それが何を意味しているのかわからなかった。こと時、私の身体に取り返しのつかない大変な事が起きているとは全く考えていなかった。

 

 

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参考にさせていただいた記事はこちらです↓

medicalnote.jp

習慣流産~不妊、不育との戦いの10年間~

 

不妊治療専門クリニックにて高度不妊治療を開始する。凍結胚盤胞移植後、陽性判定を受ける。喜びも束の間、胎児心拍が確認された後の心拍停止、すなわち2度目の繋留流産の診断を受ける。

 

 

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流産手術

流産宣告後もつわりは続いていた。つわりがある事が赤ちゃんと私の絆のように感じられ、胎児の成長が止まっている事実を受け入れ難かった。

 

流産手術前、医師は丁寧に胎児心拍がない事を確認してくれた。「心拍確認後の流産はそんなに多くないんだけどね」とぽつりと私に言った。私は何と答えて良いかわからず無言でいた。

 

今回の流産の本当の原因にわずかに疑念を抱いたが、それが何かを具体的に考る事はしなかった。今思い返せば、何か恐ろしい事を指摘されるのが怖くて、無意識のうちに原因を追究する事を避けていたのかもしれない。

 

手術を終えるとつわりは嘘のようになくなっていた。赤ちゃんとの絆が絶たれたのを、身体が受け入れてしまったように感じてひたすら悲しかった。手術後もしばくは体調がすぐれず仕事を休職した。

 

不妊治療再開と繋留流産

子どもを持つという夢を諦める訳にはいかなかった。体調が戻ると、仕事を再開するとともに再び同じクリニックで不妊治療を開始した。2度の採卵と3度の凍結胚移植の後、再び陽性判定を受ける。2度目の流産から9ヵ月経過後の事だった。

 

しかし前回の妊娠とほぼ同じタイミングで再び胎児の心拍が停止した。3度目の繋留流産である。また、エコーに映った赤ちゃんに生命感は感じられなかった。画像を眺めながら「ああ、またなのか」と冷静に考えていた。

 

その時の感情は、悲しみや絶望などではなかった。何故こんな事が起こっているのか、全く状況が理解できなかった。流産宣告をした医師は私に「不育症」である可能性が否定できないので、検査のできる病院に紹介状を書くという旨の説明をしてくれた。泣くことも怒る事もできず無感情で不妊治療専門クリニックをを後にした。

 

不育症」とは何なのか、どんな病気なのかこの時の私には全く理解できていなかった。

 

二度目の流産手術

この後の流産手術の時の記憶があまりない。前回の経験があったため、今回は妊娠している事を周囲に知られないよう慎重になっていた。妊娠した事を知っているのは夫だけだった。体調不良を理由にして仕事を1日休んだだけで仕事に復帰した。今思えばこの時無理した事が後に影響しているのかもしれない。

 

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不妊治療開始~不妊、不育との戦いの10年間~

子宮筋腫摘出の手術後、1年間の避妊期間を経て晴れて妊活を開始するが

1年間自然妊娠を試みるも妊娠する事はなかった。

不安に思った私は産婦人科を受診する事にする。

 

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不妊治をはじめる

基礎体温表から黄体機能不全が疑われ黄体補充療法から治療を開始。

タイミング療法、排卵誘発剤の使用、人工授精へと

2~3周期ごとにステップアップしていった。

 

人工授精を3回行っても妊娠しない。

この時点で妊娠しないという事は、現在の治療を続けても

妊娠できる可能性は低いと医師から説明を受ける。

 

その頃には30代も後半にさしかかっていた。

年齢を考慮し、高度不妊治療に踏み切る決意をした。

主治医から紹介されたのは、都内にある不妊治療専門クリニックだった。

 

高度不妊治療(体外受精)をはじめる

その不妊治療専門クリニックは

多くの患者が通う治療成績の良い病院らしく

県外や海外からも患者が通院している様子だった。

 

スタッフの対応は事務的で、冷たいとすら感じる時もあった。

また医師もあまり感情を交えず淡々とした対応だった。

多くの患者を受け入れるためか、治療はシステム化されており

まるでベルトコンベアーに乗せられたような気分でいた。

 

 

しかし贅沢は言っていられなかった。

子どもをこの手に抱きたかった。

ここに通っていればその夢が叶うのだと信じていた。

 

この当時はまだ妊活という言葉もなく、

不妊治療公にする雰囲気もなかった。

私自身も、不妊治療をしている事を周囲に伝える勇気がなかった。

言い訳をあれこれ考え、仕事をやりくりしながら通院していた。

しかしこれが、後に自分自身を苦しめる事となる。

 

体外受精1周期目

このクリニックは薬をあまり使わない低刺激による治療が有名だった。

私もその治療法で2個の採卵ができた。

1つは新鮮胚で移植を行う。

もう1つの胚は胚盤胞まで到達する前に分割が停止した。

この周期では妊娠する事はなかった。

 

たった1回の周期で妊娠しない確率の方が高いのは

今となっては理解できるが、この時はショックだった。

体外受精を行えば妊娠できるものだと思い込んでいた。

甘い認識だった。

 

体外受精2周期目

 次の周期は採卵後の凍結胚移植を目標に採卵を行う。

採卵数は1個だったが無事、胚盤胞となり次の周期に移植を行う。

すると意外なほどあっさりと陽性反応が出た。

 

胎嚢確認、心拍確認と順調に進んだがまたも少量の出血があった。

医者は初期の出血はよくある事なので心配いらないと説明してくれた。

早々につわりもはじまったため周囲の人に妊娠した事を隠せなくなっていた。

 

しかしもうすぐクリニックを卒業できるというある日の診察の時、

エコー検査でお腹の赤ちゃんの心拍は止まっていた。

エコーに映る画像からは、素人の私からみても生命感が感じられなかった。

この時の画像が今でも頭に焼き付いている。

 

2度目の繋留流産である。

 

不妊治療専門医は初期の流産は良くある事だと説明した。

ただ、心拍確認後の流産はぐっと減るはずだった。

この時点で医者の言葉を鵜呑みにせず検査をしていれば良かった。

あまりも無知だった。

 

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初めての流産と子宮筋腫~不妊、不育との戦いの10年間~

妊娠を意識して数年後、初めての妊娠で子宮筋腫を指摘された。

赤ちゃんはどうなるのか。そればかりを考えていた。

 

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胎嚢確認後の繋留流産

最初に行った医者が信じられなかった。疑いの気持ちが晴れなかった。

夫と相談して翌日違う病院の診察を受ける。

診察の結果、やはり筋腫が邪魔をして赤ちゃんの姿が見えない。

妊娠初期のこの頃、膣からのエコー検査が普通らしいが

医師が角度を変えてもなかなか見えないのでお腹からエコーをする。

すると小さな丸いものがモニターにうつる。

 

知識のない私はどこか安堵の気持ちでいた。

良かった。赤ちゃん見えたじゃない、と。本当に愚かだった。

 

医師「エコーで赤ちゃんの姿が確認できました。

   しかし子宮筋腫が邪魔をして成長の妨げる可能性が高いです。

   出血も続いているので自宅で安静にして下さい。

私「安静ですか?でも急に言われても仕事の引き継ぎが…

医師「今できる事をしておかないと後悔しますよ。

   診断書を書きますので安静にしてください。

 

医師に強い口調で言われる。

赤ちゃんの事ばかり考えていたという割には覚悟が足りていなかった。

事態の深刻さを理解していなかった。

慌てて職場に休暇の連絡を入れる。

この時はまだ安静にさえしていればこの妊娠を継続できると信じていた。

 

その2週間後大量の出血のため病院に駆け込むと残酷な宣告を受ける。

生理予定日から換算するともう心拍が確認されている時期。

私のお腹の中の赤ちゃんの心拍は確認されなかった。

「繋留流産」である。

 

筋腫が大きいため流産手術ではなく自然に流れて来るのを待つ事になった。

子宮を収縮させる薬を渡されて自宅へ返される。

お腹の中にもう成長する事のない赤ちゃんを抱えたまま生活するのは辛かったが

まだ一緒に居たい気持ちもあった。

 

 

その数日後生理痛よりはるかに強い痛みと共に何かが流れた。

流れた何かを持参して病院に持って行ったが赤ちゃんではなかった。

しかしお腹の中はすっかりきれいになっていたらしい。

この時やっと私の不注意で新しい命を失ってしまった罪悪感に苛まれる。

 

子宮筋腫がある事に気づいてさえいれば失わなくて済んだのに。

 

その後様々な検査を経て、子宮筋腫があるままでは妊娠が望めない事が判明する。

子宮筋腫を摘出する手術を受ける事となる。

 

術後の痛みは壮絶だったが手術を終えたことでどこか安堵していた。

これでまた妊娠する事ができると。

 

これが大変甘い認識であると気づくのはもっと後の事である。

私の本当の戦いはここから始まるのだから。

 

 

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私の30歳代~不妊、不育との戦いの10年間~

まず書いてみる事を決意する。

私が妊娠できるまでの事、いつか文章にしておこうと思っていました。

不妊に悩んでいた当時の私は毎日辛すぎて客観的に自分を見ることができませんでした。とても文章に残しておけるような心理状態ではなかったと思います。

ようやく二人の子供を授かった今ならこの頃の事も大切な思い出に変えていけるのではないかと考えています。

かけがえのない子どもを得たかわりにこの10年間で失ったものも沢山あります。だからと言って辛い思いをして頑張って来た10年もの歳月を思い出したくない記憶にしたくはありません。

上手く表現できるかわかりませんが、最後まで書き続けられるかわかりませんが、どれだけ時間がかかるかわかりませんが書いてみる事を決意しました。

※そして今現在ベビ待ちで辛い思いをなさっている方へ。私は幸いにして子どもを授かることが叶いましたが、私の拙い文章があなたの目に触れて不快な思いをさせてしまうかもしれません。お辛い気持ちの時はどうかこのブログを読む事をお控えください。

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戦い続き!私の30歳代がはじまる

当時30歳代だった私に人生の先輩達は言う。「30代?いいわね。人生の中で一番いい時期よ」私もそう思っていた。そう。あの時までは。

 

20歳代の後半に数年交際していた今の夫と結婚した私は、30歳を少し過ぎた頃、こんな風に考えていた。生涯続けていきたい仕事にも出会えた。経済的にも自信がついてきた。子どもを持ってもなんとか生活していけるのではないか。そろそろ子どもが欲しいかも?

 

あれ?なかなかできないな

そうはいっても簡単に子どもが授かる訳ではない事はもう大人なので知っていた。でもいくらなんでも、いいかげんに、そろそろできてもいいんじゃない?という思いで2~3年を漫然と過ごしていた。

 

もしかしたら妊娠したかも

一応基礎体温くらいはつけておこう。そんな軽い気持ちだった。ある日高温期が2週間以上続く。あれ?もしかしたら妊娠したかもしれない。でも産婦人科に行くにはまだ早い、妊娠検査薬を試すのもまだ早い時期。

そんな不安と期待が混じった気持ちで過ごしてると突然の不正出血。

どういう事?何これ?どうしたら良い?

 

産婦人科

不正出血が続いているが少量なので様子を見る。生理ではなさそうだ。高温期が3週間経過したところで妊娠検査薬を試す。検査窓には(+)を示す線が出る。私、妊娠したんだ。でも出血が気になる。悪い予感がする。病院に行きたくない。

 

重い腰をあげて産婦人科の門を叩く。永遠とも思えるほど長い時間をかけた超音波検査の後、医者がまさかの言葉を私に告げる。

医者:「結論から言うと妊娠はしています。

   ですが子宮に大きな筋腫があって赤ちゃんの袋が見えません

私:「筋腫ですか?

医者:「はいかなり大きい筋腫です。自覚症状はありますか?

私:「はあ。特にないと思います。ところで赤ちゃんは大丈夫ですか?

医者:「現時点では何とも言えません。今は経過を見ていくしかないです。

    一週間後にまた来てください

 

固い表情の医師に聞きたいことも聞けず、狐につままれたような気持ちで病院を後にする。子宮筋腫?嘘でしょ?自覚症状なんて感じていなかった。赤ちゃんはどうなるの?現時点で赤ちゃんがどうなるか、わからないとはどういう事?

頭の中は疑問だらけ。わからない。どうしよう。どうしよう。頭がぐるぐるして回らない。

 

今日はもう書けなくなって来ました。続きはまた今度。

 

 

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